星野監督、1991年に退団を表明した後、スポーツ紙だったと思いますが、
「名古屋野球倶楽部に成り下がったチームを戦う集団に変えた」と評されていました。
それくらい、1986年までの状況が酷かったのですね。
1986年限りで退任しましたが、当時の球団代表は
選手を叱咤激励する際にパワハラまがいの言いっぷりだったようですし(田尾選手との確執でも有名でした)。
親会社である中日新聞の記者は試合前のチームミーティングに同席できたり(普通は考えられないですよね)。

星野監督就任後、監督がチームミーティングに同席していた記者を追い出すと、
記者は(上層部を通じて?)加藤オーナー(当時)にクレームを入れましたが、
オーナーの答えは「星野君の言うとおりにしてくれ」。

星野監督は鉄拳制裁や乱闘などのイメージのためアンチも多いとは思いますし、
最初の衆院当時が低迷期だったため、改革をやり易い環境だったとはいえ、
ドラゴンズの中興の祖と言ってよい存在だったと思います。

長文駄文、すいません。