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>>93
いや、これに勝るとも劣らない試練だらけだな >>84
獅子は我が子(孫)を〜系のスパルタ神様だったのかもしれん 思い起こすとあれは試練だったのかもしれん(・∀・) >>94
ん〜(´・ω・`) まぁあんまりいい気はしないけど何もしなかったら噛まないよな >>106
dクス!!
仕事早めに終わったらいってみるわー >>107
結婚相手の親父が とかあるよね(´・ω・`) ここらへんの征服過程のドロドロを綺麗にしたのが神話なんだろうな… >>108
刺激しなきゃね
寝返りで刺激ちゃうとも限らないし >>114
あんまり素直には嫁がせたくないんだろうな >>94
「よく来たなババア!まだ生きてやがったか!」 >>109
できたら予約したほうがいいかも
まぁそんなに混んでなければ大丈夫だけど >>121
漫画太郎?
>>122
まだそんなに混んでるのか? 朝鮮半島の新羅からスサノオが渡来し、大国主から国譲りさせ出雲を征した(ヤマタノオロチ伝説)
そして吉備を経て物部政権を樹立した(奈良の纒向)
物部政権は初代神武から16代仁徳までであって
この初代から16代あたりまでの天皇(大王)は架空の存在であったが、実在のモデルは存在する
神武・応神なんかはスサノオであり、スサノオは新羅の王子であった天日槍であり
八坂神社でお馴染みの牛頭大王であり、敦賀の地名の由来にもなって敦賀駅前に銅像もある
都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト・ツノガアルヒト)であり、蘇民将来伝説の武塔神であり
ヤマトタケルでありと、挙げていったらキリがないからこの辺にするが、とにかく記紀等
日本の正史として捉えられている日本国の始まりとしては、この古代朝鮮人であったスサノオがパイオニア
実際日本が独立国家らしい姿を見せてくるのは継体・欽明のヤマト政権辺りからで
現代日本の礎を築いたのは天武天皇
実際「天皇」という称号を使い出したのも天武天皇と言われてて、それまでは小国の王を纏める
ヤマト政権の首長という意味で大王(オオキミ)と呼ばれていた
天武天皇は伊勢神宮の式年遷宮を制定し、崇拝を広めた人物であるが
本人は道教にも傾倒していて、天皇という称号を使用しだした理由も
唐の高宗が674年に自らの称号を皇帝から「天皇」に変えたから
この情報が遣唐使を通じて天武朝に伝えられ、689年に編纂された日本史上初の
体系的な法典といわれる飛鳥浄御原令に於いて「天皇」の称号が日本で初めて使われるようになった
この天武天皇は、高句麗末期の宰相であった淵蓋蘇文だという説も歴史ファンの間で支持されている 諏訪って物部一族が争いに負けて移動した説が出てなかった? >>119
寝相の悪い俺死亡待ったなし(´・ω・`)
でも実はテントにムカデと同衾で一夜を共にしたことがある俺
>>120
そういうものらしいな
いつまでも嫁がなかったら気をもむくせに勝手なもんだよ(´・ω・`) 勝るとも劣らないけど勝ると言うと角が立つので・・・ まず伊勢神宮は純日本様式であるとされてきたけど、
実は伊勢神宮正殿の手摺には、火焔文様のついた珠玉の色彩配置があり、
道教由来のモノだということが最近判明したばかり
日本書紀によると、伊勢神宮祭神である天照大神は高御産巣日神と婚姻関係にあり、
天照大神は高御産巣日神の並列神であり、高御産巣日神こそが主神とされている
そしてこの高御産巣日神は朝鮮から来た神だということ
元は地方豪族から生まれ出た天皇は、土着系と渡来系の混血であり、
「神武天皇以来、万世一系 125代」とされてきた天皇家を否定する事実なので、
意図的に、巧みに隠蔽改竄され続けてきたというわけだ
敦賀の地名の由来にもなって敦賀駅前に銅像もある
都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト・ツノガアルヒト)
これも古代朝鮮の王子であったスサノオ本人である
http://pandapanda6289.up.n.seesaa.net/pandapanda6289/tsuruga/a0728005.jpg >>153
ムカデじゃなくて美女だったらよかったのにね 今日の回、結構東方Projectと絡む要素多いぞ… >>131
まだそんなに混んでるかどうかはそれこそその映画館のHP見てくれ >>153
蛇はサクッと噛むからね
野宿は多分人の十倍はやってきたけど一番怖かったのは熊の声聞いたときと鹿の断末魔聞いたとき >>158
どうせならマッサージ師(色気なし)のほうがよかった… >>164
>鹿の断末魔
どういう状況? 熊に食べられたの? 武王=舒明天皇、義慈王=孝徳天皇、翹岐=天智天皇、淵蓋蘇文=天武天皇、
武王の妃=皇極天皇、斉明天皇であり、智積=鎌足となり、金ユ信は淵蓋蘇文の義父となっている
さらに、文武天皇は淵蓋蘇文の子であり、新羅の文武王であったが、681年に死んだことにして
日本に亡命し、軽皇子として吉野で蟄居していた
そして文武天皇となったという話
日本正史では以下のようになっている
推古(592-628)→舒明(629-641)→皇極(642-645)→孝徳(645-654)
→斉明(655-661)→中大兄称制(661-668)→天智(668-671)→弘文(671-672)
→天武(673-686)→持統称制(686-690)→持統(690-697)→文武(697-707) >>168
教えてもらったけどヒグマに教われてたみたいよ ぴろきキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!! 750年頃、聖武天皇の時代辺りから、皇族、神族、蕃族という支族差別の考えが流行した
これは自然発生的におこってきた氏族差別意識であったわけ
皇族というのは、天皇の家族あるいは親戚で、神族というのは古事記や日本書紀
に出てくる天孫降臨に随行してきた一族の子孫
すなわち、物部氏・紀氏・大伴氏・蘇我氏・中臣氏などの一族のことを指す
問題なのは蕃族で、中国や朝鮮からの渡来人を指している
つまり高句麗、百済からの亡命者と中国・新羅からの渡来人のことな
皇族、神族といえども過去に遡れば朝鮮からの渡来人が多くを占めるわけで
この時期、朝鮮からの渡来人であることを隠してまでも皇族が神族であることを主張していたわけだ
というのは日本の政治は、皇族か神族で行われるべきであり、蕃族に日本の政治を任せるべきでない
という政治的差別思想が生まれてきたからであって、実質的に蕃族は新羅人・朝鮮半島の住人を意味してたの
このことが現代にいたるまで日本人が朝鮮を目下にみる朝鮮人差別の源流となったわけだな タケミカヅチさんケツに剣刺さってるけど大丈夫っすか
アッー? スサノオに任せればーと思ったがあいつ
姉ちゃんに弱いしダメか >>183
正直この辺は何度読んでも「はぁ?」ってなる… >>164
あの鳥だかなんだか夜中にギャー とかいうやつ最初はビビった(´・ω・`)
鹿の声はビビるよな でも断末魔? そして熊の声?
((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
俺的には怖かったというのとはちょっと違うけど
夜中にうるさかったので怒鳴ったら静かになったのは 翌日考えたら不思議だった 八坂神社 創祀
当社は慶応4年(1868)5月30日付の神?官達により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社と称していた。創祀に
ついては諸説あるが、斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を
山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるという。
伊利之来朝のこと、また素戔嗚尊が御子の五十猛神とともに新羅国の曽尸茂梨(そしもり)に降られたことは、ともに『日
本書紀』に記されており、『新撰姓氏録』の「山城国諸蕃」の項には渡来人「八坂造(やさかのみやつこ)」について、そ
の祖を「狛国人、之留川麻之意利佐(しるつまのおりさ)」と記してある。この「意利佐」と先に記した「伊利之」は同一
人物と考えられている。伊利之の子孫は代々八坂造となるとともに、日置造(へきのみやつこ)・鳥井宿祢(とりいのすくね)
・栄井宿祢(さかいのすくね)・吉井宿祢(よしいのすくね)・和造(やまとのみやつこ)・日置倉人(へきのくらびと)などと
して近畿地方に繁栄した。
天長6年(829)紀百継(きのももつぐ)は、山城国愛宕郡八坂郷丘一処を賜り、神の祭祀の地とした。これが感神院の始まり
ともされている。そして、八坂造の娘を妻とし、男子のなかった八坂造家の職を継承したといわれ、その後裔である行円
(ぎょうえん)は、永保元年(1074)に感神院執行となり、以後子孫代々その職を継ぎ、明治維新による世襲制の廃止まで続いた。
「ソシモリというのは、地名ではない「ソシ」は「高い柱」、「モリ」は「頂上・てっぺん」の意味
したがって、「ソシモリ」は「高い柱の頂上」という意味だ」
「牛頭天王の「牛」は「ソ(シ)」という音にあたる漢字の牛を当てはめただけ」という
韓国慶尚北道高霊にはその昔「ソシモリ山」と呼ばれていた山が実在していたという
その山は高霊の現加耶山である
加耶山とは、仏教が伝わって以降の呼び名で、古代には「牛の頭の山」と呼んでいたそうだ
「牛の頭」は韓国語のよみで「ソシモリ」
その山が「牛の頭の山」と呼ばれたのは、加耶山麓の白雲里という村の方から見た時、
山全体が大きな牛が座っているように見えるからだという
さらに白雲里には「高天原」という地名まである ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています